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新聞に掲載されたエッセーを再録しました。

十月のだんじり (大阪民主新報 2001/10/7(日))

  十月になると、どこからか、あのかけ声が聞こえてくる。
 
   ソーリャッ、ソーリャッ、ソーリャッ……。

  道沿いの窓を開けると、秋の涼やかな風といっしょに、鐘や太鼓の音までが聞こえてくる。
 フッと目の前をだんじりの走る影がよぎる。ゆったり曳かれていくだんじりの脇について
 歩いている小さな男の子が、私に向かって笑って手を振る。
 それは一瞬の白昼夢で、目の前の路地にはトラックが停車しているだけだ。
 生ま
れた町を離れてもう十五年にもなるが、今でも秋の空気の中に、だんじりの音を感じてしまう。
 あの、胸をわさわさ泡立たせるリズムを。
 
  私の生まれ育った市では、全国でも有名な岸和田のだんじり祭りから約一ヵ月後に、
 同じようにだんじり祭りが行われていた。知名度は格段に違い、地元だけが盛り上がる
 こじんまりとした祭りだ。
  だんじりの曳き回し方にしても、岸和田とは違い、怪我人が出るような荒っぽいことはしない。
 道の曲がり角で余計に速度を上げるようなこともないし、はっきりいって派手さという点では
 岸和田には到底勝てない、地味な祭りだった。
  それでも小さい頃の私にとっては「だんじりが来る」というのは、なによりもワクワクする
 楽しいイベントだった。
  そう、だんじりは「来る」のである。私の町には自前のだんじりがなく、隣町やその隣の町の
 だんじりが、バス通りを曳かれてやってくるのを、ただ待つだけなのだ。
 
  おいちっかにぃーのっ、ソォーリャッ!
  だんじりをゆったり曳くときには、子供達やお母さんに抱っこされた赤ちゃんたちも、
 小さなハッピを着て、綱の先のはしっこのほうを持って一緒に歩いていた。
  私は、自分もその列の中に入りたくて入りたくてたまらなかった。夜、隣町のだんじりに
 飾られたちょうちんの赤い灯が遠ざかるのを、涙をこらえながら見送った。
 私は、自分も曳くことができる、自分のだんじりが欲しかった。

  ある年、私は自分だけのだんじりを作った。積み木の入っていた車つきの木箱の上に、
 レゴブロックで三角屋根の家を建てた。本物とは似ても似つかない原色のブロックで
 できただんじりだったが、喜び勇んでヒモでひっぱって廊下をねり歩いた。
 おもちゃのデンデン太鼓を振って、トットトン、トットトンとお囃子を真似しながら。
  最近、私の生まれた町でも小さいながらだんじりを作り自前で曳くようになったそうだ。
 けれど、今でも私にとって自分のだんじりは、ブロックでできたあのだんじりなのだ。
 
  一度も本物に触れることなく憧れるだけで終わったからこそ、だんじりの近づく音や気配は、
 いまだに私の心をわさわさと泡立たせるのかもしれない。



しゃべる声・歌う声 (大阪民主新報 2001/10/14(日))
  小さい頃から虚弱体質で運動が苦手だったせいか、運動会に関する記憶というものが、
 見事に抜け落ちている。今まで、ちらりとも思い出してみたことがなかった。
  一人だけ振りがズレていたダンス、いつもベッタだった徒競走、逆立ちできなかった
 組立体操……みじめな記憶は数限りなくあったはずなのに、箱に詰め込んで押入れに
 しまってある古い写真のように、憶えてはいるが自分の記憶だという実感がないのだ。

  その中で、不思議と鮮明によみがえってきた記憶が、ひとつだけある。中学二年の秋。
 運動会当日ではなく、運動会予行演習の日のことだった。
  ほかの学年の競技を応援席のすみっこで見ながら、私は歌を歌っていた。
 応援の歓声が飛び交う中、のんきに歌っていたのである。
  確か、本田路津子のデビュー曲『秋でもないのに』だったと思う。
 「運動会の季節って思いっきり秋やんけ!」と、今思い出すと突っ込みを入れたくなるが、
 友達は楽しそうに私の歌を聞いてくれていた。
  クラスの中でとりたてて仲が良かったわけでもなく、どうしても名前が思い出せない
 くらいの交友関係だった彼女が、なぜ私の歌を聞いてくれていたのかは今もわからない。
 内気で引っ込み思案だったその頃の私と、少し似通った雰囲気を持っていた子だったので、
 多くを語らなくても心のどこかで共鳴し合っていたのかもしれない。

  私が歌い終わったあと、その友達はぽつりと言った。
 「しゃべってるときと全然声が違うやん。歌ってるときは綺麗な声してるんやね」
  慢性の鼻炎で、いつも口をポカンと開けて呼吸していた当時の私は、
 鼻にかかったひしゃげた声をしていた。お世辞にもいい声とは言えないことは、
 自分でもわかっていた。でも、なんとなく「歌っているときは違う」ような気がしていた。
 鼻にかかってはいるが、それなりにいい声なんじゃないか、と。
 それを、初めてはっきり言ってくれたのが、彼女だった。
 あからさまに褒める口調ではなく、控えめな賛辞なのがかえって嬉しかった。
  
 『しゃべる声は変だけど、歌う声は綺麗だ』

  そう言われて以来、私の中でちょっと変わったポジティブ思考が生まれた。
 それまでは、自分の欠点を一つでも見つけると、自分の全てがダメのような錯覚に
 陥りがちだったのだが、それ以降は「××は出来なくても、○○は出来るから
 いいじゃないか」と開き直れるようになったのだ。

  ――運動は嫌いだけど、文章を書くのは好きだ。道案内は苦手だけど、
 地図なら書いてあげられる。――ささいなことではあるが、この開き直り思考のお陰で
 切り抜けられた場面も数多くあった。封印していた運動会の記憶の中に、
 今の自分を支えている「お気楽思考」の元があったとは、なんだか不思議である。

   

秋の夜の懐かしい騒音 (大阪民主新報 2001/10/21(日))
  秋の夜長は、たいていの場合、静かなものである。
  が、大学の吹奏楽部に居た、あの頃だけは違っていた。
 
  学園祭の演奏の練習追い込みであったり、冬にある定期演奏会の準備であったり、
 秋は夜遅くまで学校に居残ることが多かった。女の子であっても「友達の下宿に泊まるわ」と
 電話を入れただけで、家に帰らないこともしばしばだった。同じ府内に住んではいたが、
 自宅に帰るとなると一時間半近くかかる。学校周辺の友人の下宿に泊まるほうが、
 翌朝の登校がよっぽど楽なのだ。(といっても翌日朝から授業に出るとは限らなかったが。)

  もう時効だと思うので言ってしまうが、泊まるのは女の子の下宿ばかりとは限らない。
 男子寮に女子三人連れ立って『お泊り会』しに行ったこともあった。同じ学年の男子の部屋に
 女子三人の他にも四、五人の男子が集まって雑魚寝していたが、けっして「色っぽい」雰囲気
 にはならなかった。その場、そのメンバーでは、男も女もない『友達』という概念しかなかったからだ。
  練習帰りに駅前で買ってきたたこ焼きやコロッケをパクつき、缶ビールや缶ジュースを片手に、
 音楽や部活のことについて夜通し語り明かした。語って語ってノドが乾いてくると、
 全員で通りの角にある自動販売機へと、缶ジュースを買いに出かけた。
 静かな秋の真夜中に、皆のスニーカーの足音がピシャピシャと響き、
 ちょっとした話し声でも町中に聞こえてしまいそうな錯覚に陥る。
 たまたま見つけた自販機は運悪く『当たり抽選機能』がついていた。
 硬貨を入れてボタンを押すと、ピピピピ……と、けたたましい音をたててルーレットがまわるのだ。
 顔を見合わせて「しぃーっ」なんて言っても、その音は容赦なく通りに響きわたり、
 私たちは人数分の『ピピピピ攻撃』で辺りを騒がせてから、ダッシュで逃げるように寮に戻った。

  それ以外にも毎年何度も、秋の夜長を騒がすようなことばかりしていた。
  学園祭での深夜マーチング(楽器を吹きながらの行進)は、その最たるものだった。
  あまり上手ではなかった我らが吹奏楽部は、昼間でも迷惑になるような演奏能力でありながら、
 堂々と学園祭の夜のキャンパス内を行進した。それが毎年恒例の行事になっていた。
  オールナイトで映画を上映している棟の前に来ると、指揮者はおおげさに身をかがめ
 「ピアニッシモ!」と指示する。が、模擬店の焼きそばと缶ビールの小宴会で、
 もうすっかり出来上がってしまっている部員達に、音量の調整など効かない。
 かくして、学園祭運営委員や近隣の住民から部に苦情が殺到する……というのも、毎年の恒例行事だった。

  母校の大学も数年前移転し、新しいキャンパスではもう秋の夜のマーチングは行われていないらしい。
 静かな秋の夜もいいが、若さゆえの騒音も懐かしいものだ。

 
  

この美しい音楽あふれる世界に (大阪民主新報 2001/10/28(日))
  十年ぶりに三人目の子供を授かったのは、二年前の十月のことだった。
  ちょうど中学生向きの週刊新聞で連載が始まり、翌年四月からは、
 やはり中学生向き教材の読み物本での連載が決まったばかり。
  三人目の妊娠を家族みんなに祝福してもらったものの、せっかく巡ってきたチャンスを、
 妊娠中の体調不良や出産後の忙しさでフイにしてしまうのではないか。
 そんな心配で頭がいっぱいになっていた。お腹の中の子をいたわってあげる余裕などなく、
 ただただ「仕事をこなしていけるのだろうか?」という自分の不安ばかりを感じていた。
 
  きついつわりに悩まされ、検診では一まわりも違うヤンママたちに圧倒されながらも、
 三ヶ月目に入ろうとしていたときだった。
  診察室の超音波機械の前で、先生の口調が突然、重くなった。
 「前回の検診からの間に、赤ちゃんの成長が止まってしまっています。もう心臓も動いていません」
  赤ちゃんがお腹の中で死んでしまう―繋留流産は、妊婦十人に一人くらいは
 起こりうる、そんなに珍しくないことだと聞かされた。
  珍しくないことだと言われても、気持ちが楽になるわけはなかった。
 病院でこらえていたぶん、家に帰るなり泣き伏した。心の中は後悔でいっぱいだった。

  どうしてこの子の存在がわかってすぐから、もっと思いっきり愛してあげなかったの?
  どうしてちゃんと産んであげることよりも、仕事のことばかり考えていたの?

  自分に問いかけて、自分を責めて、泣いて泣いて……、胸が張り裂けそうに苦しかった。
  数日後、もう命を失った子を外に出す『処置』のため、入院した。
 一泊した病院のベッドの上、ヘッドホンをして音楽を聴いた。大好きなヨーヨー・マのベストアルバムだ。
  音楽は、チェロのソロからだんだんに、厚みのある弦楽の合奏に力強く盛り上がっていく。
 そのハーモニーはどこまでも透明な風のようで、まるで逝ってしまった子の魂を、
 遠く天上の国まで、導いてくれるかのように響いていた。
  聴きながら、また涙があふれた。悲しみにひたる涙でもなく、
 自分を責める涙でもなく、ただ美しい響きを感じて自然に流れ出す涙。
 それは、心につかえていた澱のようなものを、全部洗い流してくれるような気がした。

  こんなに美しい、美しい音楽があふれている世界に、生まれさせてあげたかった。
 そう思うと、涙が止まらなかった。

  もう、ほとんどあの頃の痛みは思い出さなくなったが、チェロの響きを耳にすると、
 あの子のことを思い出す。たったの一度も会えなかったけれど、
 私にいろんな複雑な思いをもたらしてくれた大切なあの子のことを。
 上の二人の子たちと同じように、一生愛し続けてあげたい、あの子のことを。


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