Agnus Dei

アニュス・デイ
(神の子羊)

世の罪を除き給う神の子羊よ、

彼等に永遠の安息を与え給え

主よ、永遠の光をば彼等が上に照らし給え。

 

   おばあちゃんは、ちっちゃい頃のうちが、どんなにおしゃべりな子やったか、覚えてるよね。
  夜、おばあちゃんとおかあちゃんのそばで糸つむぎしてるとき、生まれたばっかりの子羊のことや、
  原っぱに咲いてるヒナギクのことや、となりのハンス坊やが池に落ちたけど助かった話や、
  ときには近所の奥さんにきいたうわさ話まで、うち、ほんまに口を休めるひまないくらい、
  しゃべり続けてたやん。いっつも、おかあちゃん、あきれておこっとったけど、
  口といっしょに手ぇも動かしてたよって、おばあちゃんはいつも、うちのこと庇ぅてくれたね。

   あんなにおしゃべり好きやったのに、最近のうちは、だれかとしゃべること、
  ほとんどなくなってしまいました。 
   最初からずっとそばにいてくれはった守備隊長さんも騎士さんたちもみんな違う任務に
  つけられてしもて、ついにきのう、武器や馬まで、うちから取り上げられてしまいました。
  ぜんぶ王さまの命令です。

   王さまは、国の人びとすべてをしあわせにするよりも、自分のまわりだけの平和が大事やと思てはる。
  そやから、遠くまで遠征して戦うなんていややて、思てはるねん。
  貴族の人たちのほとんどみんな、うちを嫌ろぅてはることも、
  だんだん自分でわかるようになってきました。
  たかが羊飼いのいなかむすめが軍を勝利に導いていることを、
  みんなこころよく思てへん……ううん、ぶっちゃけた話、うちのことを憎んではるんやて、
  わかってしもてん。
   ずっといろんな『おぜんだて』をしてくれた隊長さんたちを追い出したり、
  王さまにうちの悪口を言うたりしてる人がおることに、うち、気ぃついてんよ。

   うちな、このいくさに出かける前とくらべて、ものすごぅかしこなったと思う。
  けど、昔とくらべて今は、ぜんぜんしあわせとちゃうの。
  人のちょっとした言葉のほんとうの意味や、目つきの奥にひそんでる『ねたみ』や、
  前にはわからへんかったことがわかるようになると、
  心の中がどんより暗い雲におおわれていく感じがする。
  きょうは特に、何日か前に戦場であしに矢が刺さったとこが痛んで、
  めちゃくちゃふしあわせな気分やけど。

   このあいだ、教会へ行こう思て町の通りを歩いてたら、いつものように
  たくさんの人に取り囲まれてしまいました。
  みんな、うちの手ぇにぎったり、子供の頭なでてくれって言うたり、
  うちに祝福を求めて来はります。
  何度か退却せなあかん負けいくさはあったけど、まだ、まずしい人にとって
  うちは『聖女さま』で、みんなうちを愛してくれてはる。

   けど、この人たちのために、うちがしてあげられることって、ほんまにあるんやろか。
  うち、目の見えへんおばあさんの手ぇにぎってあげた。
  片足が曲がって動かへん子供の頭もなでてあげた。
  けど、その人たちの身には、なんも変化はおこりませんでした。
  やっぱり、うちはニセモンなんや。
  イエスさまや、いろんな時代に何人か現れた聖人のように、
  人の病気を直してあげることなんて、うちには出来(でけ)へんかった。
  ただ、笑って手をふるだけなら、うちでのうてもできるはず。

   うちはいったい、なんのためにここにおるん?
  王さまの軍をひきいることを禁じられたうちに、なにができるの。

   うち、もう何日も、だれともしゃべっていません。
  そやから、さっき天使さまがこの部屋に来てくださった時も、なんて言うたらええのか、
  すぐには言葉が口から出て来えへんようになってた。
  ずっと重苦しい気分でばかりおったから、なつかしい天使さまを見ても、
  うちはなかなか笑顔になれませんでした。
  ほんで、やっと口から出てきた言葉が、これやった。

  「天使さま。うちはもう、みんなをしあわせにみちびくなんて、できません」

  天使さまは、とても悲しそうな目でうちを見てはった。
  「それは、今のおまえが、しあわせではないからだね」
  天使さまが言うたこと、そのとおりやったので、うちはだまってうなずいた。

  「ならば、おまえ自身がしあわせになれるよう、自分をみちびきなさい」

  天使さまは、さっぱりわけわからんことを言いました。
  今まで見たなかで、とびっきり最高級の笑顔をむだづかいしながら。

  「自分をみちびくて、どうやったらええの? どうしたらしあわせになれるん?」 
  うちが、いっしょうけんめい聞いてんのに、天使さまは答えずに消えてしまいました。
  もう〜、いっつもこうや。
  うちがたずねたことには、なんも答えてくれへんねん。

   けど、天使さまの顔を見ただけでも、うち少しだけ元気が出てきた気がするよ。
  どないしたら、しあわせになれるんかはわからへんけど、
  とりあえずまた、いっしょうけんめいお祈りしょう、思てん。
  うち忘れてたわ、おばあちゃん。うちに出来ること、うちの得意なこと、まだひとつだけあったんや。
  これから、どんなことがおきても、どんなところへ行っても、祈ることはできるから。

  今は、だれもみちびけなくても、うちはずっと祈りつづけようと思います。

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